あえて家の中に不便をつくる
自分の母親を見ていると、良きにつけ悪しきにつけ、歳をとるとはこういうことかとしみじみ思う。
ありがたいことに、ボケることもなく、足腰もまあまあしっかりしており、私は膝も腰もどこも痛くないと自慢している。人に頼らず元気に一人暮らしをしている前向きマインドなど学ぶべき点はいっぱいあり、そこは、本当に尊敬している。
しかし、こういう風にはなってはいけないなあと思うことも多々あり、申し訳ないが、そこは反面教師とさせてもらっている。
特に思うのが、歳をとるほどに様々なことが億劫になり、どんどん無精になること。つまり、動かなくなるのだ。
一人暮らしなので、身の回りのことはすべて自分が使いやすいようにしつらえているわけだが、とにかく動かなくていいように物が配置してある。合理的とは言える。
だが、食卓であるテーブルの、90%の面責を占める雑多なものの数々。薬、サプリ、数々の調味料、海苔、お茶っぱ、ポット、急須、文房具など、日常生活で必要なものなのであろうと使い途がわかるものが3割、残りの7割はなんかよくわからない。
チラシの束とか、いつのものか判然としないもらい物のお菓子とか、これはもう捨ててもよかろうと思うもので埋め尽くされている。
テーブルの10%の隙間で食事するのだが、二人だとなかなか無理。「もう、これは捨てようよ」とサプリのチラシなどをゴミ箱に入れようとするが、「いや、申し込むかどうか迷ってるから」と言う。理解できないが、どれもが必要なものらしい。多分、必要、不要の判断をすることが面倒なのではと思う。
とにかく、テーブルの上のこのカオスは、ここを一歩も動かずとも暮らせるようにと母が創造した神領域。何人たりとも手を触れることは許されないのだ。
老人は、立ったり座ったりするだけで運動になり、足腰が丈夫になると言う。家の中で、動かざること山の如しとなっている母を見るにつけ、これはいかんと思う。まあ、母は市民プールに行き、水中ウォーキングをしているらしいので、少しは安心しているのだが。それでも、プールにいかない日の方が多かろう。家の中でも、動いた方がいいと思う。
そのような様子を見ている私は、合理的すぎる生活は人間を無精にするのではと、合理的な家事動線などというものを破壊し、あえて家の中に不便をつくっている。
掃除機を2階におき、取りに上がるようにするとか、キッチンでは棚の高いところにサランラップを置き、背伸びをしてとるようにするとか。まあ、このようなことで、仕事で座ったきりになる体に無理やりムチ打っているわけだ。
階段の上り下りは有酸素運動。家にある階段は日常のジムという。毎日、ドタドタと階段を上ったり下りたりして、これも運動と満足している。
自分でもよくわからないが、あえての「不合理健康法」。結果は10年後に!