神道のお葬式は明るくて好き
今日、神社に詳しい人に聞いたのだが、神社にお参りする道「参道」は「産道」で、お参りする「お宮」は「子宮」なんだそうだ。つまり、神社にお参りすることは、生まれる前の自分に出会うことであり、お参りした後は生まれ変わって新しい自分になっているのだという。
いや、まったく知らなかった。神社にお参りに行った後の清々しさは、そういうところからきているのか。納得である。
実は私の実家は神道で、お葬式も神主さんである。私は、この神道のお葬式というものをすごーく気に入っている。
まず、神道はあらゆることが祭事なので、お葬式も祭壇に鯛が飾ってあったりして、とても明るくおめでたい雰囲気でいい感じ。戒名もいらないので、リーズナブルである。
お経はもちろん詠まない。祝詞をあげた後、前もって伝えておいた故人の人生を神主さんが読み上げてくれる。例えば、「〇〇は△△大学を卒業の後、××会社にて働き、後に独立。社員にも慕われ事業を拡大。また1男2女に恵まれ、家族円満〜」みたいな感じで、故人の生前の様子がなんとなくわかってすごくいい。
お墓まいりも2礼2拍手1礼で、お線香とかはあげない。榊を飾るのみ。死んだ人はみんな神様になるので、家では仏壇ではなく神棚を祀る。
実家がいつから神道になったのかは定かではないが、父が生前語ったところによると、「明治時代に神仏分離令が出て神社が流行ったから、流行りものが好きな爺さん(私にとってはひい爺さん)が飛びついたんやないか」ということである。このひい爺さんは汽車というものの存在を知り、地元岡山の鉄道王に俺はなる!と先祖代々の田畑すべてを売り払い、大借金をこしらえた挙句に大失敗。家族みんなで岡山を捨て、大阪に逃げるはめとなった困ったちゃんである。
その後、第2次世界大戦で大阪大空襲にあい、京都に移り住み、今があるのだが、まあ戦後も様々なことがあった流転のファミリーヒストリー。
困ったひい爺ちゃんだが、神道を選んだのは大正解だ。サンキューひい爺ちゃん。